日産パオ誕生秘話をパオの生みの親「古場田氏」に独占インタビュー。Vol.2

日産ラシーン海写真 日産パオ テラコッタ
2010.5.2
ノスタルジックなクルマを作ろうとはまったく思わなかった。
日産PAOは昭和62年、第27回東京モーターショーに参考出品し、ユニークなデザインやコンセプトなどにより様々な反響を呼び、Be-1に続く新たなパイク車として位置づけられ市販化。平成元年1月15日から4月14日までの3ヶ月という短い期間での限定生産となって世に送り出された。(街にあふれてしまうということで希少性を失わないように)という名目でこうした期間限定での販売となったわけだが、当初日産側の販売台数計画ではBe-1の販売台数1万台に対してプラス2000台の1万2000台の生産台数と予測。しかしBe-1に始まるパイクカーとしての熱狂的な支持や反響が相当なものであり、予約開始日当日からの2日間でなんと8000台以上の受注が殺到する。その後も受注が増え続け発売からたった2週間で当初計画の2倍にあたる2万4000台、最終的には3ヶ月間で5万1657台の受注を受けるのであった。
それから20年以上の歳月が経ち、未だに根強い人気があるにも関わらず、当時のエピソードや開発の裏側などなかなか知る事が出来ない。という事で、PAOチーフデザイナー古場田良郎氏に直接お伺いする事となった。
99%の方が勘違いのもとにパオに乗られていると思います。実は私達開発者の思っていた事(コンセプト)とは全然違うのです。Be-1の時もそうだった。
なんと99%もの人が勘違いの基にPAOに乗っているという衝撃的な話でインタビューは始まった。
「それは年数を経ているということもありますし(パオの発売は1989年) それから今のいろんな流行もありますので、仕方がないと思いますが。」
現時点でその99%の勘違い中にスピードウェル社も含まれているコトを知るのである。
では、この勘違いとは一体どういうものなのだろうか。
それは当社のレザーシートのデザインに代表されるミッドセンチュリー『1950年代前後』のデザインテイストだった。
当社のウェル50、60デザインのシート張替えは非常に人気がある商品なのではあるが、 パオ開発当時はミッドセンチュリーに代表されるデザインやイメージは想像などされてはいなかった。 当時からミッドセンチュリーというデザインは存在していたのだが、 パオ発売当時の、まだたった20年前というデザインは、歴史は浅く年代が近すぎるいうこともあって 今のようにミッドセンチュリーというデザインが一般大衆の生活の中に入るほどの物ではなかったようだ。

しかし昨今ではミッドセンチュリーやレトロテイストの人気を背景に若者らを中心に、 自宅の部屋全体をそのテイストにコーディネイトしたり整えたりして楽しんでいるのがよく見受けられる。 特に家具であったり、ファブリックなどである。 現代もっともポピュラーな所ではセレクトショップ『フランフラン』などを見れば明らかであろう。
古場田氏は続けて言う。そういった昨今のミッドセンチュリーやレトロテイストの人気を背景に、 『その延長線上でそういった物を車に持ちこむときにベースとなる車は何か無いかと、こだわりを持った人達が 「パオってもしかするとそういう雰囲気に対応出来るかな」「これだったらそういう風にアレンジしてもいいかな」 という所で自分の部屋の延長線上に近くアレンジしやすく違和感なく入っていけそうだという事で、パオを選ばれているとう感覚がほとんどではないでしょうか。 そういった流行やら年数を経てるということを考えると、99%の方が勘違いのもとにパオに乗られているというのも 仕方が無いとは思いますし、それはそれで良いと思います。パオにお乗りになられる方の自由ですからアレンジされるのは全然OKなんです。』
レトロという概念は無かったんですよね。
PAOが発売されたその当時、やっとレトロということばが出てきて定着し始めていた頃でレトロという概念は無かったんですよね。 Be-1で普及した言葉なんです。
レトロという言葉は今では当たり前だしレトロテイストの車というのも趣味的な領域ってあって良いと思うんだけれども そういったモノを越えた所で提案し、最終的にレトロやノスタルジックと受け取られるのは、感じるのは自由ですからそれはそれで良いのですが。 ミッドセンチュリーやレトロテイストの流行は比較的落ち着いてきたと思いますが、未だに根強い人気があります。 この流れは定番化し、これからずっと生き残っていく一つのテイストではあると思います。 しかし、セレクトショップや飲食店、美容室などすべてがミッドセンチュリーやレトロテイストを取り入れた店舗が多くなっていますよね。 そこまで来ると今度はみんな飽きちゃうですよね。で、また違うその流れを求めてということなんです。
「敏感な層に向けて開発」
一般大衆に受け入れてもうらおうとは毛頭考えていませんでした。
パオの商品開発を行う上で、これから流行を作り出していく人などの敏感な層に向けて開発された。 これは開発チームがよくする商品開発の手法であり、消費者の特性をピラミッド状になぞらえて一番頂上の所 (流行を作り出していく人)を狙い、そこに商品を投入し、それが時間と共にどんどん一般大衆化していくという仕組みであった。
そして、一般大衆化したころには、その頂上に居た人達はもう別のところに居るという。 常に先に行かないと気がすまない人達は必ずおり、開発チームが狙っていた層とはそういう所なのであろう。
そして、その尖がった部分を見つける為に、開発チームはBe-1にひき続きウォータースタジオというアパレル企画集団にコンタクトを取り さらに次の流れは何だろうという事をリサーチするところからパオは始まったのであった。
Be-1の様な特殊な車のジャンルはどうやら存在する
Be-1がそこそこ市場での評価が得られたことにより、これは次もあるだろうと判断しBe-1がまとめられていた時 『86年7月以降Be-1がほぼ形になって古場田氏らはどうやって売ろうかなど、合宿をおこなって考えていた頃(Be-1発売の半年前)』 当時Be-2になるのではないかと噂されていた複数の方向性のある車のコンセプト開発がスタートした。 そしてBe-1の延長線上というわけでは無く、それに代わるBe-1の様な特殊な車のジャンルはどうやら存在すると確信していた開発チームは 続けてデザインの研究をしましょうとウォータースタジオとコンセプトの開発を進めるコトとなる。
「トラベル・旅行」「サファリ」というPAOのキーワード
ウォータースタジオが複数提案し紹介した一つのテイストが「バナナリパブリック」という「トラベル・旅行」「サファリ」 ということをキーワードにした様々な商品を扱っている面白いお店だった。 
当時ウォータースタジオをはじめファッションクリエイターはニューヨーク、ロンドンなどの世界で情報発信している地域の最先端の商品、 ショップ、販売環境、コンセプトなどをいかに早く見つけて来て日本に紹介するか、それが彼らの商売であったようだ。
そこで後にパオとなる「バナナリパブリック」というテイスト(案)を含め複数の方向性が当時検討されていったのである。
複数の方向性とはものすごくハイデザインだとか、ステーショナリ(お洒落な・高価な)みたいな感覚のクルマやモーターバイク、などという感覚だ。 それぞれが今までのデザインの概念で例えると比較的理解しやすいところであり、複数の方向性としてスケッチが描かれるのである。
そして、最終的にモデルとなったのは、バナナリパブリック『トラベル・旅行、サファリ』をイメージした車であった。
当時のバナナリパブリックとは
1978年.当時40歳くらいの旅行が大好きなメルビン・ジーグラー(元ジャーナリスト)と 妻のパトリシア(イラストレーターカタログのイラストは彼女の作)が世界中から集めた大量のウェアを メールオーダーなどで売りさばくところからスタート。
ジーグラーいわく「アフリカに行く言い訳が欲しかった・・」また「ファッションではない・・」と主張している。 ファッションではないというファッション。ブランドがないというブランド。 商品のテーマはトラベル&サファリである。 取扱商品は自然素材のサファリジャケットやシャツ、パンツ、旅行用品、旅行書籍などであった。

当時、バナナリパブリックは日本でも少し雑誌で取り上げられ始めており、アメリカ東海岸、西海岸でけっこうブレイクし始めていると言う 時期である。 ニューヨークの中だけでも多店舗展開され、各店舗毎にユニークな切り口で空間演出やストーリーの中に商品をディスプレイし販売されていた。 例えばジャングルに不時着したセスナのジオラマとかジープとかのジオラマとかがフルサイズで配置し演出され、それぞれに独自のストーリーが展開されてる 斬新な販売戦略が行われていたのである。

視察を行った古場田氏は後にこう分析を行っている。 「軍の放出衣料を民生用に少しお洒落にアレンジしたモノを販売するなど、気分をとても大切にした世界だったと思います。」


その『気分』の世界とはこういうものだ。
何も無い生活、余計な事を一切していない感じ。しかし夢はある。
それでは、最終案となったバナナリパブリックとは一体どういうものであったのであろうか。 そしてバナナリパブリックをどうやってクルマというモノにデザインとして落とし込んでいったのであろうか?


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古場田デザインスタジオ 古場田良郎
プロダクトデザイナー 日産自動車デザイン本部在籍中は、数々の量産車のデザイン、同社CIデザインシステム導入プロジェクトを始め、各種先行開発、および限定生産車「Be-1」「PAO」「FIGARO」の商品企画、デザインを手掛け、パイクカー(高感度商品)戦略の基礎を築く。 現在、企業イメージの形成や企業、各種団体、地域などの活性化に向け、情報と情緒をもとに、モノ本来の基盤を高めながら商品価値形成を行い、ヒトとモノと社会の良い関係をカタチづくるためのさまざまなデザイン活動(コーディネート、ディレクション、プロデュース)を行っている。
(社)日本インダストリアルデザイナー協会/会員
独立行政法人 中小企業基盤整備機構 アドバイザー
財団法人 石川県産業創出支援機構 アドバイザー
link:古場田デザインスタジオ
ウェルのあとがき
今回は、パオの始まりから皆様に理解して頂きたく、本来のPAOの姿という視点で執筆しご覧頂いた。それは、昨今のパオへの様々な勘違いを修正すると共に、 よりパオというクルマを理解して頂く事で、今以上に魅力や誇りを感じてもらえるという気持ちにつながってゆくからに他ならない。 パオというモノの概念(コンセプト)は非常に難解ではあるが、実に素直なものであり、気分や雰囲気を非常に大切にしているという事が理解できたであろう。 次号ではバナナリパブリックをどのようにデザインしクルマというモノにどうやって落とし込んでいったのか。そして、どのようなテイストで アレンジされていったのか、明らかになるから乞うご期待!!