スピードウェル、パオを知る
1989年、パオは3ヶ月期間限定で発売された。今からちょうど20年前のことである。
スピードウェルが専門店としてこのパオ(パイクカー)を取り扱い、
情熱を傾け、日々製作に没頭している訳だが、なぜパオ(パイクカー)がこの世に
存在するのかという疑問が浮上する。
どういう意図でデザインされたのか、なぜ限定で発売されたのか、など。
今まではスピードウェルのオリジナリティーを主張し続け製作してきたのだが、
振り返ると、かえってパオの良さを台無しにしているやもしれぬ。
パオ(パイクカー)は誰が、いつ、どこで、どうして、どのようにして、生まれてき
たのか。
スピードウェルとしてはその真相を知り、本来の製作者の意図を少しでも理解
することが重要だと考えた。
さらにそれらを皆に伝える義務がスピードウェルにはある。
そして、パオの元日産チーフデザイナー古場田良郎氏に直接話を聞くことに成功し
た。
古場田氏は大変気さくな方で色々とお話を頂いたのだが、パオのお話の前にパイク
カーの
第一号でもあるプロジェクト、
Be-1を避けては語れないことが明らかとなった。
Be-1
非常に特殊な時代に隙間をぬって出てきた、奇跡的なプロジェクトだった。
1987年3月、日産自動車、久米豊社長が直筆による御礼広告が全国主要新聞に掲載された。
『Be-1に1万台のご予約。あつく御礼申し上げます』
先着販売という方式をとった事により、購入希望者が購入できなかった事に対しての
お詫びだった。
1977年、古場田良郎氏は日産自動車に入社。造形部、第2造形課という部署へ配属された。当時のシルビア・ガゼール(S110の後期型であるUS110型やS12型)のエクステリアデザインなどを手掛けた後、日産創立50周年を機にDATSUNブランドとNISSANブランドを世界統一させるCIデザインマニュアルの作成やエンジンルームなどの共用部品デザインなどを手掛け、そろそろクルマをデザインしたくなってきたと思った時に異動願いをだす。
マーチはマイナーチェンジを行うタイミングだった。
通常であればマイナーチェンジを行う時期に同時進行でフルチェンジモデルの開発を行う。
古場田氏はその時、二代目マーチのフルチェンジモデルのデザインに関わることが出来ると計算していた。
そしてマーチのフルチェンジモデルのデザイン開発を担当する部署へ異動となった。
しかし、日産自動車は販売不振に陥っていた。情勢は変化したのである。
この時点で初代マーチのモデルライフを10年にしようという事になり
2代目マーチのモデルチェンジ自体の構想が延びてしまった。
古場田氏をはじめとしたデザイナー陣は宙に浮いてしまう。
計算が外れた古場田氏。しかしその後も、自主的に新型車(2代目マーチの構想)を開発を推し進めていくのだが、
いくら皆で話し合っても良い案が浮かんでこない。
デザイン自体の考え方を変える必要があった。
『2代目マーチの構想から、ニューモデルとしての仮想へとテーマが変えられた。』
そこでいろんなテーマでイメージしたデザイン(A、B、C)案が浮上。
ココでのA案は従来手法の案、B案(B-1、B-2)は違った観点やセグメントで考えた案。C案はイタリアのデザイン事務所による案だった。
この3案の原寸大クレイモデルが製作され、社内でのアンケートや役員を個別に呼んでプレゼンテーションが行われた。
そこで3案の中でB案の関心のもたれ方が異常だったのである。そう、もうお分かりだろう、これこそ古場田氏の提案した案、
Bの1案。後にBe-1となる案だった。
当時、日産社内では企業イメージを一新させるモデルを探していたこともあり、上層部による経営会議にかけられた。
そして見事に第26回東京モーターショーへ出品することになる。
しかしB-1案をモーターショーという不特定多数の人や評論家が見にくる場にだして
この案がたたかれてつぶされるのではないかと不安だった。
古場田氏は実は極めてマイナーなデビューを望んでいたのである。
そんな中、第26回東京モーターショーが開かれた。
『とにかくいくらで売るんだ』『今予約していく』など熱狂的な声を聞きく事となる。』
そこではBe-1は大絶賛だった。
Be-1は日産がメインで出品したMID4やCUE-Xを出し抜き大きな反響を得る事となってしまったのだ。
この熱狂振りを受けて日産自動車は1年半後の
1987年にBe-1を市販モデルとして1万台限定で発売する事になった。
こうしたBe-1の成功が日産自動車社内でも認められ、パオの開発へと続くのである。
Be-1の思想には沢山のキーワードが存在し、
古場田氏をインタビューした中でウェルが重要だと感じた事を一部ではあるが紹介しよう。
『いかにモノでもっておもてなしをするか』
デザインでどういう気持ちになってもらえるのか。単なるモノから気持ちの入り込めるところにまで昇華できるかどうかということです。そこで単なるモノとしての価値を超えられるのです。
『クルマとクルマを比べることを否定している。クルマと敵対するような物ではない。』
ライバルはアコースティックかもしれない。コットン100%かもしれない。メリーゴーランドかもしれない・・と、Be-1コンセプトブック(10万部販売)のコピーでも表現されているように、そういう比較なんですよ。 つまり単なるモノとしてのクルマでは無いという事を宣言しているのです。
古場田デザインスタジオ 古場田良郎
プロダクトデザイナー
日産自動車デザイン本部在籍中は、数々の量産車のデザイン、同社CIデザインシステム導入プロジェクトを始め、各種先行開発、および限定生産車「Be-1」「PAO」「FIGARO」の商品企画、デザインを手掛け、パイクカー(高感度商品)戦略の基礎を築く。 現在、企業イメージの形成や企業、各種団体、地域などの活性化に向け、情報と情緒をもとに、モノ本来の基盤を高めながら商品価値形成を行い、ヒトとモノと社会の良い関係をカタチづくるためのさまざまなデザイン活動(コーディネート、ディレクション、プロデュース)を行っている。
(社)日本インダストリアルデザイナー協会/会員
独立行政法人 中小企業基盤整備機構 アドバイザー
財団法人 石川県産業創出支援機構 アドバイザー
link:古場田デザインスタジオ
ウェルのあとがき
人と人とのおもてなしは解かる。しかし、いかにモノでもっておもてなしをするかというところが、
古場田氏のコダワリでもあったのだろうし、製作時になかなか理解されなかったところでもあるだろう。
しかしおもてなしのデザインが追求されて出来上がったモノが
本当に素晴らしかったからこそ、当時プレミアが付き、価格は2倍に跳ね上がり、
さらにBe-1現象というものまで引き起こし、ひとつのカルチャーにまで発展する事となったわけだ。
実は限定1万台という枠が日産の弱気だったかもしれない。そして、現代の日産が
この思想を放棄した事が今となっては痛手であろう。
夢のお話だが古場田氏に再販を依頼したいものである。
今回はBe-1を紹介する事ができた。
次回はようやく皆様がお待ちかね、パオを語るにしよう。